属性というのは生まれついた環境であって、勝ちとったり見つけたりするものではないのだ。 (『穴の町』より)
「育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない」僕はセロリ好きだが、あなたは嫌いかもしれない。
先日ふらっと入った本屋さんの外国文学コーナーで帯に目を引かれ、最初の1ページを読んでみて迷いなく購入した1冊、ショーン・プレスコットの『穴の町』。オーストラリア文学である。興味深く読ませていただいたので少し記録しておく。
郊外の名もなき町々についての作品を執筆中の「ぼく」。とある町に滞在し、誰も乗らないバスの運転手をはじめとする町の住人に取材をする。あるとき、街区に大きな穴が空き、町は消失し始める……。〈ガーディアン〉誌で「力強く、かつ不穏」と評された物語。(BOOKデータベースより)
オーストラリアのとある「町」とそこで暮らす人々のお話。様々なメタファーが含まれる物語だけれども、基本的には、オーストラリアの原住民アボリジニのアイデンティティについての物語なのかなと思う。というか、読みながらオーストラリアの歴史について調べていたのだけれど、「アボリジニ」という表現が差別用語になりうるということを初めて知って驚いた。こういった差別的な(になりうる)言葉を無意識に使ってしまっていることって、結構あるのだろうな。勿論この文章で使われている「アボリジニ」という表現に差別的な要素は含みません。
さて。あとからやってきた人間によって邪魔者扱いされ、彼らは文化、歴史、アイデンティティを奪われ、それでいて最後は、じゃあしょうがないオーストラリア人として認めるよ、なんて勝手なことをされて、もはや自分達が何者なのかわからなくなるというのは当然のような気もする。
彼らは自分達のアイデンティティを再び探し、勝ち取らなければいけなかった。本来そんなことをする必要などないはずなのに。属性に善悪はない。
なんて簡単に言える話ではないのかもしれないけれど、そういった理不尽な迫害の歴史を経てきた彼らの心情を想像すると辛いものがある。オーストラリアには行ったことがないし、アボリジニの方々にも出会ったことはないからなんとも言えないけれど、『穴の町』の登場人物たちの虚脱感は、今のアボリジニとして生きる人々の現実なのかもしれない。
この小説は元々、オーストラリアに暮らす人々に向けて書かれたのだろうなという印象を読んでいて受けたんだけれども、しかし、どこに暮らしていようが関係なく読む意味のある作品であると思う。勿論日本でも。
『穴の町』の中の「町」や「人」は、なんだか現実感がなくどこか不思議な感じなんだけれど、でもなんだか既視感のある世界。意味もなくショッピングモールに集まる人々。危機感のなさ。無関心。まあ人の事言えないけれども、なんとなく僕の住む町や国の人々と重なったり。いやディスってるわけではないんだけれども。
でも、そうやって自分の住む「町」と重ねて読むのも面白いかなと。
まあ、なんにせよ色んな読み方の出来る小説である。良い小説というのはそういうもので、ひとつの結果、解答を得るのではなく、読むたびに違う発見があったり、知的好奇心や探究心を掻き立てるものなのかもしれない。
いや。小説はただ小説であって、良し悪しも正邪もないのかもしれない。まあ多分、人生と一緒で楽しんだもん勝ちである。
属性にしろ小説にしろ、差別化したり認めるまでもなくそれは唯それである。

- 作者: ショーン・プレスコット,北田絵里子
- 出版社/メーカー: 早川書房
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