句読点の位置って、文章を書いていて多分一番、と行っても過言ではないほど気にするところ。これは文体と一緒でその人の好みなんだろうけれど、「書く」時だけではなく「読む」時にも非常に気になってしまう。
え。と思う位置にそれがあると、もうそこで読むのをやめてしまうなんてこともある(何度も言うけどただの好み)。いくら筋や描写が良かったり面白い話であったりしても、どうしても気持ちが萎えてしまう。勿体ないかもしれないが、これはしょうがないのである。
まあ、あえて変な位置に置くというのも一つの技術ではあるが、それはまた別の話。とにかく、文章を書くことをそれなりに本気でやっている人で、句読点の位置にこだわらない人はいないと思うし、それがその人のリズムであるに違いない。
結局リズムが合うかどうか、というだけのことなのかもしれない。
黙読していても、脳内では音が鳴っている。言葉や文章は音楽である、と僕はなんとなく思っている。書く時、読む時、話す時にどんな言葉を選ぶのかで、その人が筋や内容を重視するのか、もしくは聴こえ方や響きを重視するのかがわかってくる。
勿論どちらが正しいということはない。どのように書こうが話そうが、その人の自由である。
ただ、否定は決してしないが、そこから距離を置くのもまた自由であって、リズムが合わない文章は読まないくていいのである。同様に、どうにも合わない音楽は無理して聴く必要はない、ということである。
まあ要は、好きなようにすればいい、というだけのことである。
このように、「である」が続く文章はあまり好きではないけれども、飽きて考えるのが面倒になってきたので、特に変えないのである。
推敲好きの村上春樹氏に怒られそうだが、そもそも読まれることはないだろうから気にしない。僕が村上春樹氏の小説が好きなのは、彼が推敲好きだというところも関係しているように思う。
推敲好きは句読点の位置にめちゃくちゃ拘るタイプである。と、勝手に僕は思っている。