ほんといろいろ。

読書とただ日常は日記か何か

吉行淳之介『大きい荷物』を読んだら『手帖』にメモを

吉行淳之介の『大きい荷物』声の無駄遣い。記憶と言葉、音楽。窓から差し込む光。クロスではなく塗り壁。サッシには木製ブラインド。席には文庫本が10数冊並んでいる。隣には小さな地球儀。影が丸い。

いつもの席には先客がいて、しかたなく僕は別の席へ座る。窓からの光を真正面に受けるその席のテーブルには、十数冊の文庫本が並べられている。その隣には小さな地球儀。何気なく、それをクルクルと回していると、店員さんがやってくる。僕は、初めてこのカフェに来たときと同じ、バタートマトチキンカレーを注文する。

テーブルの上に並ぶ、文庫本の中から一冊手に取る。吉行淳之介の『目玉』という短編集。表題作、ではなく最初の『大きい荷物』という短編を読み始める。この話の中で、「私」は自分の昔の手帖に書かれたメモを読み返し、それらを書いた時の記憶を呼び起こす。取るに足らないものから人生の岐路まで、様々な記憶。音楽や匂いなど、記憶をを呼び覚ます要因となるものは色々とある。でも、音楽や匂いによる記憶というのは、無意識的のような気がする。その反面、言葉、というかメモというのは、その時の自分の思考、意思のようなものが凝縮されているのではないかと思う。

最近では、何か思いついたことがあると、とりあえずiPhoneのアプリへメモを入力する。メモというか、ブログに文章として書き始めてしまうことが多い。まあ、別にそれでいいのだけれども、その書いたものを後で読み返す時のことを考える。

やはりアナログ的思考の僕としては、「手帖」をパラパラとめくり書かれたものを読み返す、というようなその「行為」に好意を持つ。あくまで好みの問題だけれども。

バタートマトチキンカレーを待ちながら、食べながら、そして食後のブレンドコーヒーを飲みながら、そんなことを考える。しかし、そこには「手帖」は無く、僕はそのことについて結局iPhoneへメモをする。冒頭はそのメモである。

このように、iPhoneひとつで即座にメモを取り、簡単にブログを書き、投稿することができる。合理的で素晴らしい。けれども、「手帖」にメモをするという、その一手間が愛おしく感じるのは、きっと僕だけではないだろうと思う。

食後のコーヒーも飲み終え、僕は会計を済ませ外へ出る。車へ戻ると、早速ダッシュボードへ無造作に置かれている「手帖」を手に取り、何かを書こうとするが、思い浮かばない。メモというのは書こうと思って書くものではないのだ。それは唐突にやってくる。どんな場面でどんな状況の時にやってくるのかは予想できない。だから、常に「手帖」は手元になければいけない。

。。それも、面倒だな。と車を運転しながら思う。いや、何も「手帖」だけにメモをしようということではないか。どちらもうまく使いこなしていけばいい、ということなだけである。

仕事を終え、今日はホテルではなく実家へ帰る。弟夫婦も来ていて、皆で一緒に夕飯を食べた。姪っ子が可愛く癒される。そして、彼らは自宅へ帰り、両親も就寝。僕はひとり、少し離れたところにある「手帖」を眺めながら、iPhoneでブログを書いている。

「手帖」という表記は、吉行さんの『大きい荷物』の中のそれに準じた。「手帳」より「手帖」のほうがさ、なんか、いいよね。

おわり。