ほんといろいろ。

小説の感想とその他いろいろ(音楽、映画、壁紙...)愚考録

自己満と傲慢

「だが」よりも「だけれども」のほうがただ単純に好きなだけであって、だから「だけれども」を使うわけだけれども、これは読む人に何か特別な印象を与えようと思って使っているわけではない。誰しも、好みの文体というものがあると思う。文章というのは、ゼロからひねり出せるものではなくて、必ず誰かの書いたものを読んで、それを借用する。どんなにアバンギャルドに見える文体でも、ルーツはある。まあ、言語学的素養をほとんど持ち合わせていないので、あくまで勝手な考えだけれども。

このように、とにかく「だけれども」のオンパレードになりがちなのが最近の僕の文章の特徴で、それは何故なのか、とふと疑問に思い、とりあえず書き始めたのである。そしてこの「である」も、いつも「だ」と迷うのだけれども、みんなどうやって決めてるのかな?と今書きながら思う。

やっぱり皆色々な文章を読んで、「ああ、こういう風に書きたいな」という理想みたいなものがあるのだろうか。僕の場合は少し違うかもしれない。いや、皆違うのかもしれない。

「文体」というのは、とにかくこう引力みたいなものが働くというか何というか。読んでいる文章に引っ張られがちになる。というか。特に特徴のない「文体」ならいいのだけれども、それこそ冒頭で書いた「アバンギャルドな文体」みたいなものを読んだりすると、僕は簡単に影響を受ける。芯がない、とも言う。

まあ、別にそれでいいのだけれども。とまた「だけれども」を使っているけれども、僕がこれを使うようになったその根源も必ずあるはずなのだ。でも、思いつかない。まあ、いつか何か思い当たることがあったら、書こう。

このように、誰の役にも立たないし、自分で解答も得られていない文章を書くことができるのも、ブログの愉しさである。

昨日はブログに「日記」を書こう、といったことを書いたけれども、別に何でもいいのだ。文章を書くのは楽しいのだ。自己満足でいいのである。誰かのために書く、なんていうのは傲慢である。と、誰かが書いていたのを読んで共感したので、ちゃっかり使わせていただいたのである。

うーむ。「である」と「だ」の選択は難しい。

おわり。

おまけ日記。


今、スティーブ・エリクソンの『黒い時計の旅』(柴田元幸訳)を読んでいる。お初の作家さんなのだけれども、ナンデスカコレ、すごい面白い。ついにZが。先が気になるのでこの辺で。